この話題をこのブログに書くというのはどうかなとも思ったのですが、最近のニュースを見ていてどうしてもモヤモヤするので、ちょこっとだけ書いておこうかと…。

最近色々と話題というか問題になっている教育勅語。
教育勅語を授業で使うことを認めるとか、それに反対するとか…。
教育勅語に関しては、学生時代にお世話になった先生から聞いた話がとても印象に残っていて、今でも忘れられずにいます。
以下は、その先生から聞いた話のあらましです。

第二次大戦中、学校には教育勅語の写しを納める特別な倉のようなものが設けられ、まるで神殿にご神体を祭るようにして保管されていました。
そして、空襲警報が発令されると、その教育勅語の写しが焼けてしまわないように安全な場所に移すことが、当時の教師にとっては命を賭してもするべきとても大切なことでした。
もし、万が一にも教育勅語の写しを責任者が持って逃げずに自分だけが避難してそれが燃えてしまった場合、非国民のそしりは免れなかったのではないかと、想像します。
そういう社会状況下で、ただ逃げれば助かったものを、教育勅語の写しを取りに行ったがために命を落とした教師もいました。
当時は、教師や児童の命以上に、教育勅語の写しは大切なものとされていたといってもいいのかもしれません。
先生も、何度も教育勅語の写しをもって避難したそうで、その時は、それを守ることが自分の仕事を忠実にやり遂げることだという使命感もあり、とても一生懸命だったそうです。
でも、敗戦後、価値観は変わります。
教育勅語の写しは、決して人の命に代えても守るべきものではなくなりました。
自分が信じて教えていた価値観を否定され新しい価値観を目の前につきつけられることは、先生にとっては大きな衝撃で、最初、心がついていかなかったといいました。
けれど、その後、自分の持っていた価値観が、いつの間にか歪んでいたことにも気づいたそうです。

この話をしてくださった先生は、戦争中、教育現場に立って、まだきちんとした判断もできない子供たちに、国のために命を投げ出すことを尊ぶような偏った愛国教育をしたことをとても後悔していらっしゃいました。
自分のしたことを罪だとさえ感じて苦しんで、教師をやめようとしたか、一時的にやめたこともあったと話していらしたと記憶しています。
先生は、「もう二度と、ああいう教育はしてはいけないのだ。あなたたちは、良い時代に生まれた。」・・・とおっしゃっていました。

教育勅語という単語を目にするたびに、この先生の話を思い出さずにはおられません。


キリスト教も仏教も、カルトも、どんな宗教も、お題目は立派なものだ。悪いことを勧める宗教はない。正しいことを勧める。どんな教えもありがたいことを言う。でも、大切なのは、お題目じゃなく、その宗教団体がどんなことをしているかだ。
・・・と、うちの母は言います。

宗教と教育勅語を一緒にするのは違うかもしれませんが、一部に正しい教えが書かれていても、それが何を引き起こしたものかを慮るべきじゃないのかと私は考えます。
もし、教育勅語によいことが書かれているんだから、教えるべきだというならば、かつて教育勅語がどんな風に扱われ、それをめぐってどんな物語があったのかも、教えた方がいいんじゃないかと個人的には思います。
だから、教育勅語を安易に教育現場に持ち込むのには、正直賛成できません。
美化するようなことがあるのなら、尚更。
もし持ち込むのならば、その功罪をきちんと伝えてほしいと思います。
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